生野の変(いくののへん)は、江戸時代後期の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件である。生野の乱、生野義挙とも言う。
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文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めた(天誅組の変)。
天誅組の過激な行動を危惧した公卿三条実美は暴発を制止するべく、学習院出仕の平野国臣(福岡脱藩)を五条へ送った。
その直後の8月18日、政局は一変する。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまう(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放された(七卿落ち)。
変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合するが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知る。平野は巻き返しを図るべく大和国を去った。
天誅組は十津川郷士を募兵して1000人余の兵力になるが、装備は貧弱なものだった。高取城攻略を図るが失敗し、9月に入って周辺諸藩からの討伐を受け、多勢に無勢で各地で敗退し、9月27日に壊滅した。
挙兵
但馬国は小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていた。同国の生野銀山が有名だが、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していた。生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。
平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。
28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿沢宣嘉を主将に迎えることを決めた。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めるが、藩首脳部は消極的だった。
10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(元奇兵隊総管)ら尊攘浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かった。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置いた。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張するが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになった。
播磨口の番所は彼らを穏便に通し、12日未明に生野に入った。生野代官所は彼らの動きを当然察知していたが、代官の川上猪太郎が出張中なこともあり、代官所を無抵抗で平野らへ明け渡した。藩と違い、天領の代官所は広い地域を支配している割には軍備が手薄であり、天誅組の挙兵の際も五条代官所は40人程の浪士に占領されている。
壊滅
平野、北垣らは「当役所」の名で沢宣嘉の告諭文を発して、天領一帯に募兵を呼びかけ、かねてより北垣が「農兵論」を唱えていたこともあり、その日正午には2000人もの農民が生野の町に群集した。
天誅組の変の直後とあって、幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動している。
諸藩の素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散説が持ち上がった。強硬論の平野、河上らに圧されて解散は思いとどまるが、13日夜に肝心の主将の沢宣嘉が解散派とともに本陣から脱走してしまった。集まった農民たちは動揺する。
妙見山に布陣していた河上は生野の町で闘死しようとするが、騙されたと怒った農民たちが「偽浪士」と罵って彼らに襲いかかった。河上ら13人の浪士は妙見山に戻って自刃して果てる。
美玉三平と中島太郎兵衛は農民に襲撃され射殺された。平野は兵を解散させると鳥取へ向かったが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られる。その他の浪士たちも戦死、逃亡、捕縛された。
元治元年(1864年)7月の禁門の変の際に平野は幕吏によって六角獄舎で殺害された。
北垣晋太郎は生き残り、維新後に京都府知事となっている。
生野での挙兵はあっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。
八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)は、江戸時代末期の文久3年8月18日(1863年9月30日)に一橋慶喜や薩摩藩・会津藩などの公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都における政治の中枢から追放した政変である。文久年間に起きたことから文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)とも呼ばれている。
尊攘派の長州藩と公家は、大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとした。徳川幕府がこれに従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬ることも視野に入れたものだった。しかし、事前に薩摩藩(当時は長州藩と対立)に察知され、薩摩藩や藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派の振る舞いを快く思っていなかった孝明天皇や公武合体派の公家は連帯してこの計画を潰し、朝廷における尊攘派一掃を画策した。
文久3年8月18日、会津・薩摩などの藩兵が御所九門の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らを参内させ、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議。長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われた。またこの時、朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。
これによってこれまで京都政界を掌握してきた尊攘派が京都政界から追放された。後に池田屋事件や禁門の変が起こるきっかけにもなった出来事であった。
処罰された人物
三条実美
広幡忠礼
沢宣嘉