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2009年04月 アーカイブ

2009年04月06日

リトル・リチャード

リトル・リチャード(Little Richard、1932年12月5日 - )はアメリカ合衆国の歌手。ロックの創始者の一人。本名:リチャード・ウェイン・ペニマン(Richard Wayne Penniman)。

バイオグラフィ [編集]
ジョージア州メイコンの黒人の家庭に生まれる。同性愛者であるため、実の父親に疎んじられて白人の家庭へ養子に出される。皿洗いの仕事をしながら歌い続け、1951年から1954年にかけて、友人ジョニー・オーティスの推薦でピーコック・レコーズから数枚のシングルを出したがほとんど売れなかった。粘り強くデモテープをレコード会社に送り続け、1955年、スペシャルティ・レコーズからデビュー。「トゥッティ・フルッティ」("Tutti Frutti")、「のっぽのサリー」("Long Tall Sally")、「ジェニ・ジェニ」("Jenny, Jenny")、「グッド・ゴリー・ミス・モリー」("Good Golly, Miss Molly")といったヒットを飛ばす。エネルギッシュな歌唱法で、草創期のロックに決定的な影響を与えた。激しいアクションでピアノを弾く姿も話題となった。また、映画『女はそれを我慢できない』(1956年)に主題歌を提供する一方、自らも出演した。

1957年、人気の絶頂期に突如引退を発表し、アラバマ州のオークウッド大学に入学して神学を修め牧師となった。しばらくはロックを罪深い悪魔の音楽として遠ざけゴスペルを歌っていたが、1962年にロック歌手として復帰。この復帰コンサートの前座を務めたのが無名時代のビートルズだった。この時期、バックバンドのメンバーの一人にジミ・ヘンドリックスがいた。

1986年にロックの殿堂入りを果たす。『フルハウス』などテレビドラマへの出演も多い。1990年、リヴィング・カラーの楽曲「エルヴィスは死んだ」にゲスト参加。1992年には日本のギタリスト・高中正義とアルバムを共作した。1996年のアトランタオリンピック閉会式でピアノを演奏。

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2009年04月24日

ゴーピ・クリシュナ

1903年、インドのジャンムー・カシミール州の夏季州都シュリーナガルから約32km離れたガイルーという小さな村に生まれる。17歳の頃から毎日欠かさず瞑想行を行じる。21歳の頃、カシミール州政府の公共土木局に就職。22歳の頃、ゴーピ・クリシュナの生涯において、彼の2度の瀕死の危機に献身的な看護で回復を手助けすることになる、義務感の強い7つ年下のバラムラ出身の女性と巡り合い、結婚する。

1937年、彼が34歳の頃、カシミール州の冬季州都ジャンムーで、一心不乱に瞑想行を行じていたところ、ヨーガにおいて悟りを得るために必要とされているクンダリニー覚醒・サマーディを体験する。しかし、クンダリニーエネルギーがピンガラー(太陽)回路のみを通っており、尚且つその覚醒があまりに急なものであり、彼はそれを受容するための開発された肉体を持っていなかった。そのため、その後の数ヶ月間、生死を彷徨うほどの神経の損傷、極度の肉体的・精神的疲労を経験することとなる。七転八倒の末、体内のイダー(月)回路を意識し、それが活性化するように念じたところ、一命を取り留めることに成功する。直後、体内を駆け巡るクンダリニーエネルギーが内蔵や神経の損傷したところに留まり、修復しているのを彼は感じたという。

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それから年月が流れ、以前とほぼ変わらないほど体力が回復したある日、今までと同じ見慣れた風景を何気なく見やったところ、自己の目を疑うような銀色に輝く美しい光景に見え、驚愕を憶える。そして1943年12月、これまで控えていた深く長く集中した瞑想をまたやってみたいという衝動に駆られ、遂にそれを実行に移すことを決意する。6年前のクンダリニー覚醒体験以上の無限定の大海に洗われる、筆舌に尽くしがたい深遠なる境地、大我に没入しつつも僅かながら個我が残存しているといった深いサマーディに浸ることになる。しかしその瞑想も、個我主導の、神への帰命の精神に欠ける瞑想であったため、6年前と同様のクンダリニーの暴発を経験し生死を彷徨ってしまうが、なんとか回復に至る。

2度の暴発体験を踏まえ、その後の彼は、エゴの力みをなくし、自然に任せ大我に沈み込んでいくような形で瞑想を行うようになる。2度の霊的死闘を乗り越えた彼は、そうするだけで、なんなくサマーディに入定できるまでに成長した。

1946年、彼は州の冠婚葬祭の簡素化運動を推進する団体を結成する。しかし当時は支持者より反対者の方が多く、運動中止に追い込まれるが、その後、30万人とも100万人ともいわれている犠牲者を出したカシミール問題に際し、彼と彼の団体は、略奪の被害者や死亡者の遺族を救援する。いつものように救援活動に従事していた1949年末、彼が46歳の頃、突如一編の完成された詩が、心の中にひらひらと舞い降りてくる。その後彼は、詩を創造する才能が一気に開花するようになり、後に詩集を上梓している。1950年、権力闘争等の世俗的な諸問題から逃れ、平穏な修行生活に専念するため、長年勤めていたカシミール州政府の事務職を辞職する。

その後、スリナガルにクンダリニー研究財団を設立。研究者と共に、まだ科学では解明されているとはいえない、生命の未知の神秘の解明に尽力した。1984年、80年余りの生涯を終える。

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